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2014/08/19

第二次世界大戦下のフィリピン

第二次世界大戦下のフィリピン

69年目の終戦記念日にあたる8/15、セブでも戦没者慰霊祭が行われました。
フィリピンでの主戦場となったルソン島やレイテ島が有名ですが、セブでも米軍の上陸に際した戦闘で6000名が亡くなったと言います。

慰霊碑であるセブ観音はマルコポーロホテルの敷地内で維持管理されている。

(マルコポーロホテルは元々日本人のオーナーであったが、今はドイツ人オーナーとなっている。国籍は違えど慰霊碑を維持管理してくれ、毎年慰霊祭を行わせてもらっていることに感謝)

セブ観音。

台座にはセブで亡くなった方々の名前が刻まれた碑が収められているらしい。
なぜこの地に建立されたかというと、米軍機に撃墜された零戦が墜落した地、という話だった。

参加者は60~70名程だろうか、献花と焼香をし黙祷を捧げる。

式典後は懇談会が行われ、様々な話を聞くことが出来た。
マルコポーロホテルのご好意で軽食と飲み物が提供された。

眼下に望むセブシティの町並み。ITパークは中央右より、青いビルにクレーンが付いてる建物のあたりだ。

フィリピンでの戦死者は中国戦線よりも多い。
激戦で知られるガダルカナルやインパールなども有名だが、それよりも群を抜いて多い。
投入された戦力70万人のうち、戦死50万人という凄絶さで、その半分以上が餓死・病死(マラリア・デング熱・アメーバ赤痢等)と言われている。

というのも、敗軍の、しかも熱帯雨林に逃げ込んだ兵士たちの正確な死因など掴みようがないのだ。
兵站と輸送を軽視した日本軍の末路とは言え、あまりにも悲惨だ。
そういったフィリピン主戦場としてよりも、セブは飛行場を保有する後方基地で有名である。
それも
史上初の神風特別攻撃隊が出撃した基地として有名だ

JYスクエアから望むITパーク。

様々な外国企業が入り、コールセンターが集中している。
コンドミニアムなどのビルディングの建設ラッシュとなり、このITパーク内だけで生活することが可能だ。

セブのラホグ飛行場はもう残ってはいない。
1980年頃?までは残っていたそうだが、もともとレシプロ機用の飛行場であり滑走路が短かったためほとんど発着もなく、現在のマクタン国際飛行場に吸収される形で閉鎖となった。
フィリピン人もあまり知らない人が多い。
飛行場跡地は買収され、現在は「ITパーク」と名前を変え、セブでも名所となっている。

なるほど、地図上でもやはり細長い。
もともと飛行場だったというのも頷ける。

日本人であれば、というか外人でも誰もがKAMIKAZEといえば知らない者はいないと思う。
最初の特攻はこのフィリピンの地で実行された。

米軍がレイテ島に上陸し、それを撃滅するための「捷一号作戦」が発動される。
簡単な内容はこうだ。
海上戦力によって敵空母艦隊、補給・輸送艦隊を撃滅し、海上から敵上陸部隊を叩く。
それに呼応してレイテ陸上戦力で米上陸部隊を排撃する、というものであった。

しかしことはそんなに簡単ではない。
当時はすでに航空機が圧倒的な力を示しており、いかに日本の強力な艦隊といえども航空機の援護なしには不可能な作戦であった。

ところが既に日本はガダルカナル戦線・マリアナ沖海戦・台湾沖航空戦で多くの航空機・ベテランパイロットを喪失しており、攻撃どころか制空権の維持すら出来ない状況だった。

そこでこの作戦では、本命の艦隊以外に3つの艦隊を囮として用意し、敵の航空機の的にさせて本命をレイテ湾に突入させるという作戦になった。

さらに、敵空母の脅威度を下げるために、少ない航空機でできる事。
ただの1週間でも良い、その間、敵空母の甲板に穴を開け飛行機を飛ばせなくすれば良い。

神風特別攻撃隊が編成されることになる。
すべては艦隊突入の成功のために捧げられた。

結局、作戦は失敗に終わる。
本命の艦隊は三日三晩の度重なる米軍機との交戦・米艦隊との交戦で疲弊し、レイテ湾に突入すること無く離脱する。
連合艦隊の事実上の戦闘能力喪失という事実と

特攻という攻撃方法が残されてしまった。

その最初の特攻部隊である「大和隊」がセブ・ラホグ飛行場から飛び立っていった。
最初の特攻というと、ルソン島マバラカット飛行場から出撃した関行男大尉率いる「敷島隊」が有名だ。

今回の慰霊祭では実際の戦争体験者から話を聞くことが出来た。
「特攻というとマバラカットの関大尉の敷島隊が最初に突入したと言われるがそれは違う。
本当はこのセブから発進した久納中尉の方が何時間か先だったんです」

(※実際に久納中尉が一番最初の未帰還機となるが、それは10/25の最初の特攻に先立つ10/21であり、おそらく関大尉の敷島隊より数時間先に突入した朝日隊・菊水隊・山桜隊と混同していると思われる)

「戦中派の我々はそういう細かいところも気にして資料を読むわけだけれど、戦争を経験していない戦後派の人間は、興味があっても細かいことは気にしない。
自分たち(戦中派)は、同期にも特攻で死んでいった者達がいるから…」

「最初に特攻したのは久納中尉だったんです。日本側に記録はないけれど、米軍側にはある。突入する久納中尉の機体を写した写真があるんです。」

これは私の知らない情報だった。
特攻隊は突入する日まで連日出撃を繰り返し、会敵出来ずに空振りに終わっていた。
その中で、久納中尉は帰還を選ばず、未帰還となる。

日本側にも米軍側にも記録がないので、てっきり燃料が尽きて墜落してしまったか、はたまた…
と思っていたが。

結局、私の調べうる限りでその「写真」について調べてみたが、見つけることは出来なかった。
米軍側に被害記録がない以上、突入には失敗したのであろう。だが写真があろうがなかろうが、特攻作戦での最初の犠牲者は久納中尉だ。

この後、日本軍は捷一号作戦のみに使われるはずだった特攻を通常攻撃の方法に組み込み常態化していく。

今はITパークとなり、影も形もなくなってしまったが、セブにもこんな悲しい歴史があるのだ。

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